高原幸男のブログ
日常の出来事から、思いのまま書きました。
盆踊りのこと
盆踊りのこと

 盆踊りでは、関西で有名な徳島の阿波踊りがあり、全国から観光客が詰めかけて、その踊りの絶妙な手さばきに見とれます。私の母も徳島阿波吉野町の生まれであったので、子どもの頃手の振り方など教えて貰った記憶があります。
 盆踊りとしては諸説あるようですが、徳島の阿波踊りは、菅原道真が、讃岐の国司であったとき、大干ばつ(888年)があって、雨乞いのために、道真が七日七晩祈ったところ雨に恵まれ、農民が喜んで滝宮神社の前で踊り狂ったのがルーツだと言われております。

 しかし、盆踊りは本来仏教行事で、これも諸説あるようですが、祖霊崇拝、念仏踊りがルーツと言われ、平安時代、盂蘭盆会の行事と結びついて、死者を供養することと、先祖の精霊達(餓鬼)を踊りで慰め、送り出す意味で行われていたとも言われています。
 (精霊流しや送り火(京都五山)と意味は同じであるようです。)

 前回語ったように、お盆に一年一度、地獄の釜の蓋が開いて、先祖が精霊となって子孫に会いに来るのですが、子孫は餓鬼となって来る先祖が恐ろしくなって、変な霊が憑いても困るため、念仏を唱えながら踊ったのが始まりとも言われてもいます。私はこれが本音ではないかと思います。
盆踊り
 今は櫓を組み立てて、周囲を踊りますが、昔はたき火を囲んで踊っていたようです。たき火は雨乞い説もありますが、火は獣や、害虫が火を恐れるのと同じように考え、先祖の死者の霊が火を怖れ、そばにいる自分には近づかないように考えて、火を炊くのだそうです。また踊りは、自分が元気であることをアッピールして、私はまだまだ死は早い、こんなに元気に踊っているではありませんか!と、訴えながら踊る意味と、死霊が迎えに来たとしても、踊りで和んでもらいながら、間違っても自分には、死霊がひっつかないように、追い払う意味を含めた踊りであると言われていました。

 そう意味で徳島の阿波踊りを見てみますと、手先の振りは「来い、来い」と招くのでなく、「あっちへ行け、行け」と追い払う振り付けであると、言われた人がいますが、真偽は別としても、何か当たっているような気がします。

 お盆として、奉る日が終れば、今度は急いで、(一日も猶予はありません)折角一年一度、子孫に会いに来た先祖を、供え物と(汚れたとして)一緒に、送り火や精霊流しなどで、焼いたり、流し捨てるのであります。
 つまり、戻って来た先祖を、一刻でも早くあの世の地獄へ、送り返そうとする行為なのです。お釈迦様でさえ、自分を一生懸命に育て、全勢力を注いで成長させてくれた母を、感謝する思いもなく、地獄で逆さ吊りになっていると想像をして、供養せよと言ったお盆祭。盂蘭盆会(ウランバナ=逆さ吊りの意味)盆祭りの行事には、祖先を大切にするどころか、このような非情な意味が含んでおるのです。
 盆踊りや、送り火の行事は、心から先祖を敬い想うのであれば、やめるべきはないかと思います。盆踊りとせず、地域交流の踊り会、地域子供大会などと名を変えて、仏教や寺院の関わりを無くして楽しい地域の行事として行う方が良いのではないでしょうか。

 問題は、この盆踊りに強制的に参加をさせたり、協力、献品をしない者には、村八分ではないですが、それに似たような、地域から白眼視されるところが今でも残っています。神社仏閣が主人公となって、町会費や子ども会費が献納されているとも伺っております。
 純粋に子どもや地域のことを考えるならば、配慮することは少しあるように思います。
 
お盆のこと
お盆のこと

 お盆の記念日は八月十五日です。この日の前後、日本の会社は仕事を休み、家族揃って帰省し、再会を喜び合います。盆踊りなるものを、地域の親睦を計るために、公園や空き地にやぐらを建て、みんなで踊って、盆休みを楽しく過ごします。
しかし、本当の意味を知って行っているのでしょうかと疑問を抱きます。
そもそも「お盆」とは盂蘭盆会とも言われています。 盂蘭盆とは梵語(サンスクリット語)でウラバンナ 「甚だしい苦しみ」と言う意味で、先祖が餓鬼になってしまったことを慰めるために、食物を備え、冥福を祈る祭りであります。 それは、『孟蘭盆経』の目連の説話によると『広辞苑』にはあります。森山諭師の『神道と仏教をただす』には、ソクド人(イラン人)の盆器に供物をもって祖霊に供えた風習と道教の三元(上元・!二月十五日、中元…七月十五日、下元…八月十五日)の思想と、仏教が習合し、『孟蘭盆経』の目連の説話が創作されたと言われています。

 こう考えると、本来の意味からすれば、非常にえげつない(関西方言)先祖への仕打ちと思えるのが、このお盆の祭ではないでしょうか。つまり、子孫の我々が、先祖を尊ぶと言いつつも、実際は先祖を餓鬼と思っていること。一年に一度、このお盆に地獄の釜のふたが開いて、先祖の餓鬼の精霊が、子孫に会いたくて家に戻ると思われています。子孫はそうなると、恐ろしい餓鬼と化した先祖がゾロゾロやってきては大変。必死になって、霊魂を慰めるために、日頃ホットケさんであるのに、この時ばかりは、仏壇を掃除をし、蓮の花やご馳走を一杯に並べ、先祖の餓鬼が、充分に食べてもらえるようにするのであります。
 しかし、餓鬼と言うのは、ノドが針のように細くてなっていて、何も食べられず、ご馳走を口に持っていっても食べられないため、何時も飢えて苦しんでいると言うのが、餓鬼のことです。ですから、かえって一年にたった一度、豪華にご馳走を用意したところで、そのご馳走を見せるだけの苦しみを味あわせ、かえってストレスを与えるのが、盆の祭りではないでしょうか。
 また、この一日だけ、お坊さんを呼んで、家族一同鎮座していることを見せながら、読経して貰って、仏心を保持し、仲良く豊かにやっておりますよと、一日だけでも、見栄を張って、見せるのが盆の供養となっているのではないでしょうか。
餓鬼

 この絵は『餓鬼草紙』という絵巻物の一場面です。子どもの右側にいるのが餓鬼です。
 餓鬼)は子どもが排泄した大便を食いあさろうと待ちかまえています。これほどつねに飢えと渇きに悩まされている亡霊です。
 餓鬼とは前世に悪いことをしたために餓鬼道に落とされ、おなかは大きいけれど、のどが細いために食べられず、いつも腹に満たされたない空腹に悩まされています。口に入る物なら糞尿や死体など、何でも食べようとするのです。そのように先祖を思って祀るのが「お盆」と言うことなのです。
 
 京都で「送り火」として、周囲の5山にかがり火を点火したり、提灯に火を灯して川へ流したり、一日も遅れることなく行われる行事は、わずか一年一度、折角、子孫になつかしく会いに来ているのに、一日も早く餓鬼はかえれ!と先祖を、もう一度地獄へ送り返す行事となるのです。
 夜空に輝く火は美しく見えますが、冷たい仕打ちの恐ろしい行事と言えるのではないでしょうか。

次は盆踊りについて
 
退場 キリスト教結婚式 30
退場 キリスト教結婚式 30

 いよいよ二人の新しい門出が始まります。二人は腕を組み、来賓のみんなから「おめでとう!」の言葉を受けながら、拍手で見送られます。これは二人にとって最高の喜びであります。
そして、待ちかまえていたドアの係が扉を開け、二人は教会から出て行きます。そして、再び扉が閉じられます。(閉じられないところもありますが) それは文字通り、扉は門であり、そこを出て行くことで門出、出発を意味しています。

 二人が腕を組み、歩むこれからは、キリスト教社会で言う「一体」となって生きる人生であることを示しています。
 これから家庭を築いていくわけですが、家庭を持てば、問題のない家庭はありません。どんな家庭も問題はあります。(問題だらけは本当に問題ですが・・・?)
 それを男として、女として二人が一体となって支え合い、腕を組んで取り組んでいく姿(人生)を示しています。これからどんな状況にも二人が腕を組み合い、離れないで、共に歩むことを意味しています。
 腕を組んで生きる二人は、単に一緒にいることではありません。生活全てを共有し合い、(財布、食事、寝室、あらゆるものを含みます。)社会的にも経済的にも、生きる全てを一つとなって、共に行き合うこととなるのです。
 ですから、夫以外、妻以外に、今後一切腕を組んではいけません。

 男と女の違いだけでなく、性格も、考え方も、物の判断力も、全てが異なる二人です。これが神様が備えた最高のカップルとなっているのです。その違いが、家庭で生じる問題に、異なる知恵が働き、解決のメドを発見することとなるのです。性格の違いがあればこそ有益なこととなり、賢さが生まれるのです。夫は妻に相談をしてください。妻は夫の相談に知恵を持って支えて上げてください。

 聖書には『賢い妻は夫の冠である、恥をこうむらせる妻は、夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言2:4)と書かれています。賢い妻は夫にとって、大事な頭の上に載せる王冠だと言っています。反対に夫に逆らい、夫を自分より愚かと思っている愚かな妻は、骨髄に生じたガンのようだと言っています。
 更に聖書は、『妻の争うのは、雨漏りの絶えないのとひとしい。家と富は先祖から受け継ぐもの、賢い妻は主(神)から賜るものである』(箴言19:13〜14)と書かれています。

 家庭を築く上で妻の役目は大きいものです。私は料理が出来ません。ですから料理が出来る人をいつも尊敬のまなざしで見ています。
 料理には目に見えない隠し味が重要であり、何種類もある調味料をいろいろ加え、量の加減一つで美味しさが変わるのです。そのコンビネーションを調合する妻は、調味料の特徴をわきまえ、賢こくなくては出来ません。
 料理がうまい奥さんは大体賢い人が多いです。家庭の味を造り、その家庭の雰囲気を作り出すのは、妻の働きが左右します。男は大体家庭を守ることは不得手です。でもこの互いの違いが良いコンビネーションとなって、幸せな家庭が営まれて参ります。
 私の妻は料理が上手です。その手際よさ、冷蔵庫から取り出す品々の種類が多くて、私は理解できません。妻は冠ですから私の頭の上にいます。ですから私は妻に頭が上がりません。
 でも、妻に出来ないことを、私には出来るものを持っています。それでバランスが保たれています。

 決して二人が一つの考えではありません。また理想希望通りではありません。これが、家庭を築いていく上に置いて、問題解決への最高の力であることは、年を重ねる毎に判ってきます。
 理想希望と言う心は、本人の欲望です。結婚した後も、俺の理想通り生きる、私の希望通りに生きる、とすれば、相手を無視した自分勝手な生き方であり、二人が腕を組んで出発した意味がありません。
 腕を組んで進む行進は、これからいろんな違いを理解し、腕を組んで良いコンビネーションをかもし出しながら、進んでいくことを物語っているのです。

 これから築く家庭は二人の責任です。理想希望通りではありませんが、おたがいが持っているその違いを上手く調合しながら、あなた方が築いていくのです。
 人の真似をして生きることではありません。それぞれの家庭の味が必要なのです。その違いがご近所で用いられ、社会に貢献も出来るのです。
 どうぞ仲良く生きてください。仲良くすることには賢さ、知恵が必要です。愚かな人はすぐに争い、ケンカをしています。ケンカしている人は尊敬されていません。
 愚かな人ほど自分の腕力を誇示しようとします。賢い夫は自制、節操をわきまえている人です。
賢い夫婦であって下さい。

 これで、キリスト教結婚式について終了します。
何かのご質問、ご意見がありましたら、メールを下さい。


ただ、最近迷惑メールが多くて困っています。商売は誘惑して商売することは判っていますが、個人的な家庭に、勝手に上がり込んで迷惑をかける事は、愚かなやり方で、喜ばれて注文させる方法が、本当の賢い商売です。迷惑にならないようにご質問をしてください。
アーメン三唱 キリスト教結婚式 29
アーメン三唱 キリスト教結婚式 29

祝祷の後、アーメン三唱が歌われます。
アーメンとは、今のイスラエルの言葉、ヘブル語で、「その通り、然り、確かに、本当に」と言う意味があります。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見ますと、原意は「安定」であるそうです。
 詳しいことは判りませんが、本来ユダヤ教のラビ(神父、牧師と同じような立場の人)が祈り終わると、会衆が「その通り」と言う応答で「アーメン」と言うようになりました。

 聖書では、ユダヤ人は神により、歴史の象徴的な立場として、選ばれた民とされています。その民が神の真意を忘れ、形式のみ、儀式を行うことで、神に仕えていると思い違いをし、形ばかりが優先して、心の内部、霊的な信仰から離れ、堕落して行きました。
 それをイエス・キリストが、本当の神の心を示すために生まれて来られ、本来のユダヤ教(神の教え)を示されました。そう言う意味で、基本的にキリスト教はユダヤ教と同じなのです。アーメンというのも、ユダヤ教と同じであり、聖書(旧約)も同じなのです。

 前回申したように「祝祷」が、集まっている会衆への祝福であり、神に栄光を表し、神が伴なった祝福の中で、派遣されていく祈りで締めくくられるわけです。ですからその後、アーメン三唱をとなえるのは、一唱より、力を入れ、「そうだ、そうだ、その通りだ!」というような感じで、神に感謝を表し、三回歌うのであります。

 新郎新婦が新生活への出発に先立ち、牧師が唱える全能の神の祝福を受け、会衆一同、「その通りだ」と証言されて、賛美で送り出される退場(人生の出発)は、なんと幸いなことでしょうか。
 これからの家庭生活の責任は二人にあります。しかし、多くの人々との関わり合いが無ければ、幸せにはなりません。自分達さえよければ良いという考えは、不幸です。親戚知人の多くの人々が、「アーメン、アーメン、アーメン」と祝福を言う場合は、これからの二人が出会う多くの試練にも、支えとなって下さる方々となるわけです。
 アーメン三唱は、聖歌隊が歌うだけでなく、参列者一同が歌ってこそ、本当の意味があるのです。



次回のキリスト教結婚式、第30回の「退場」を話して、キリスト教結婚式についてを終了します。
ぜひ、第1回からブログをお読み下さい。キリスト教結婚式の本当の意味が、一部でしょうけれど、理解して戴けると思います。
 結婚式を控えた人は、とくにこのコーナーを、お読みいただきたいと願っています。
祝祷 キリスト教結婚式 28
祝祷 キリスト教結婚式 28

祝祷

 祝福の祈りを持って、キリスト教結婚式は終了します。

 「頌栄」の讃美歌の時に全員起立して(体の不自由な方は座ったまま)会衆一同歌います。
そのまま、祈りの姿勢をとり、牧師が語る祝祷の言葉を心に刻み、最後に会衆一同で「アーメン」と言います。その後すぐにオルガンによって「アーメン三唱」などが弾かれます。その間、起立したまま黙祷し、アーメン三唱の後、牧師の指示で、新郎新婦の退場となります。
 「アーメン」には「然り」「その通りです」と言う意味があります。全ての祈りの後に「アーメン」があります。

 「祝祷」は、新しくはじまるこれからの二人の生活が、神様の祝福の中にある事を保障する祈りであり,家族親族友人にも、神の加護と繁栄を祈り、この世に送り出されるための派遣の祈りでもあります。

ちなみに祝祷は次のように祈られます。
新約聖書のコリントの信徒への手紙二13章13節の言葉が原型となっています。 
「願わくは,我らの主イエス・キリストの恵,父なる神の愛,聖霊なる神の親しき交わりとが,今、ここに夫婦となった二人の上に、お家族、親族ご一同のうえに,更に、友人知人ご一同の上に、今も後も,世々限りなく豊にあらんことを アーメン」

 牧師は祝祷において、参列者お一人一人の上に、天地創造主の神様からの祝福の祈りを捧げています。それは同時に、お一人お一人に対する派遣の宣言で、宗教行事としての結婚式の目指す祝祷において、クライマックスを迎えると言っても過言ではないと私は考えています。

 復活された主イエスは、昇天される時、弟子たちに次のように命じられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(新約聖書マタイ28:18-20)

 私たちは天地の権能を授かり、復活したイエス・キリストなる神が、いつも私たちと共にいて下さる、その偉大な信仰をを与えられています。私たちはその使命を頂き、祝祷によって、礼拝という主のもとから祝福をもって世に派遣されるのです。

 キリスト教会の教派にもよりますが、礼拝式の中で、両手を挙げて、祝祷の式を行なう事が出来るのは、正式な牧師として、公認されている者しか出来ないことになっています。神学校を出ただけの者や、正式な資格がない者が、万一祝祷の場に立たされた場合は、片手しか挙げられません。又両手とも挙げないで、祝祷をします。

 このように祝祷をすることは、いつくしみ深い神であるけれど、制度は守られなければならないことになっています。
 以前に申したように、偽って姿、形だけを整えて、真似事のように行った場合、呪いがあることを申しています。その結婚式が不幸と言えるかも知れません。

 それほど重要な最後の儀式となっています。牧師からの心からなる祝祷を受けることは、本当に大切なのです。
頌栄 キリスト教結婚式 27
頌栄 キリスト教結婚式 27

頌栄(しょうえい)


一般結婚式場でも、本当の教会の伝統を重視した式場では、式順の最後の歌として「頌栄」が歌われています。

 この、「頌栄」とは何を意味しているのでしょうか。

 明治時代の教会では、海外の讃美歌を訳して歌われていました。礼拝の式順にあった最後の英語のCHANTを、「賛詠」と訳されていました。それが、いつとはなく「頌栄」と教会の週報に記載されて行きました。明確な分類によって定義されているわけでなく、便宜上、讃美歌の機能上、「三位一体の神を讃え、栄光を神に帰する歌であれば、全て「頌栄」と言うことだそうです。

 英語の「チャント」と言うのは、神への応答として、会話と同じリズムで「詠じる」歌であったようです。その意味からして、礼拝で(結婚式で)伺った牧師からのメッセージに、その応答として会衆一同賛美をし、神様に招かれ、賛美できたことを喜び、新しい家庭が生み出された二人への祝福となるようにとの願いを込めて歌われていくのです。

「ちち、御子、み霊の おおみ神に・・・」と歌われているように、三位一体の神によって、二人は結び合わされ、神の導き、助けが、新しい生活に及び続けることを願い、神に栄光を帰することが「頌栄」なのです。

 最近の式場では歌わなかったり、別の讃美歌が歌われたりしています。それはそれで自由です。
ただ、キリスト教会では神様への応答として、讃美歌541番の「頌栄」が定着していますので、注文をつける牧師がいます。
 歴史的に考えても、教理的に考えても、結婚式の場合は、どんな讃美歌でも良いというのが本当なのです。

 しかし、ある音楽事務所の社長が、結婚式で、演歌や歌謡曲でも、本人が希望すれば、歌ってやっても構わない。と、業界新聞に記載していましたが、これには問題があります。キリスト教結婚式ですから、宗教行事として厳粛な式典であることを忘れています。披露宴とは違います。
 キリスト教結婚式は、何を歌っても自由なところはありますが、行き過ぎた安っぽい歌で、二人を歌うのは、祝福の歌になりません。意味が違います。
 
夫婦として宣言 キリスト教結婚式 26
夫婦として宣言 

キリスト教結婚式 26


 結婚証書にサインが終わりましたら、新郎新婦は会衆の方を向きます。キリスト教では、参列者が二人の結婚の証人という形になりますので、一寸姿勢を正していただいて、(中にはお父様、お母様に起立していただいて)、暖かいまなざしを注いで貰います。
牧師は会衆に向かって宣言をします。

『(新郎の名前)と(新婦の名前)は、今、神の御前において、真心から夫婦となる誓約を致しました。二人は各々、その父と母を離れ、結び合い、一心同体となったのであります。!
 ゆえに、父と子と聖霊のみ名によって、この男女が夫婦であることを宣言します。!
人は、神が結び合わされた者を、引き離してはならない。!』 アーメン


 牧師はキリスト教結婚式の中で、祈りながら、一番力を込めて、会衆に訴え、二人の結婚生活に祝福以外の何物も介入してはいけないことを宣告します。

 父母を離れることは、神が聖書の創世記の中で、人類の始祖、アダムとエバに対して、明確な夫婦としての条件を述べたところから始まります。
 この父母を離れることは、物理的な分離を意味していません。
経済的に、精神的に親から分離をしなければ、子どもが出来たときの親としての子どもを養う知恵と能力が欠けることになります。
 神はアダム、エバに対しても労働を命じ、自活できるように導いておられます。夫婦は、経済においても、生活を営む上で、充分に行う能力を身につけねばならないのです。親に頼ったり、他人の成り行きに任せて生きることではありません。
 マザコンはキリスト教では結婚の資格はありません。男として、女性として一人前の営みを行うに当たり、近所や社会での対応能力に欠けることは不幸です。
 
 夫婦宣言は、独立と自立と生活の成立を、公的に確認することになるのです。
しかも、神が合わせたもう夫婦を、人間の策略や誘惑で、絶対に破壊してはならないのです。それを行った者は神が呪うとあります。
 夫婦宣言は、厳粛な司式者としての責任と、真の神の名をもって執り行うこの一言葉は、非常に重要な意味を持っています。
 ただ、ホテルや式場の結婚式で、万一神を知らない、信じていない者(ニセ牧師)が、神の名をもって夫婦宣言を行った場合、神の裁きがその者に及ぶことを聖書は物語っております。大きな呪いと災いがあることを語っているのです。絶対に縁起や、偽って行うことではありません。
 私としましても、毎回この場所になると、身が引き締まる思いです。父なる神の名と、子なるイエス・キリストの名と聖霊の名を語ることは、映画の例を挙げることはいけないことですが、「レイダーズ」失われたアーク(聖柩)のなかで、最終場面で祭司のカッコをして、アークの蓋を開けたとき、見ていたドイツ軍全員に神の裁きが及ぶシーンがありましたが、本当にあのような厳粛さを覚えるのであります。

三位一体なる臨在する神に対して、決して侮ってはなりません。夫婦とは神の不思議な計画による人類に対しての祝福であります。それを人間の考えで打ち壊してはなりません。




結婚証書 キリスト教結婚式 その25
結婚証書にサイン

キリスト教結婚式 その25


 日本の結婚登録は、最寄の役所で婚姻届をもらう所から、始まります。
書類は、戸籍抄本又は戸籍謄本が必要となります。(本籍地以外で提出する場合。本籍地役所にて用意、郵送もしてくれます。)
 次ぎに、必要事項を記入、捺印。証人欄にも成人の証明、捺印が必要です。(証人2名必要)
もれなく必要事項に記入が出来た婚姻届を、新住所の役所に提出。(受理されれば、夫婦です!)

 婚姻届けは出張所や支所以外、24時間365日いつでも受け付けて貰えます。とても簡単です。
余りにあっけない受理の仕方で、物足りないぐらいです。時には、受理する役員さんが「おめでとう!」と言ってくれる場合もありますが、当人の届けでなく、代理者でも良いわけですから、祝いの言葉もありません。

 たったこれだけで、一生苦楽を共に、一緒に生活をしなければなりません。しかし、別れるときは手続きは非常に複雑で、難しく、精神的にも財産的にも大きな損失を被ります。(慎重に)

 その認識とこれから二人が、「夫婦であるのだ」、と言う確認をいつも行う必要があるのです。
夫婦の間に問題が生じるのは、誓約を行った誓約の言葉を忘れるからなのです。
忘れず、常に思い出し、実行に向かわせるのが、交換し合った指輪なのであり、この結婚証書なのであります。

 海外の教会で結婚式をするときは、すでに婚姻届が受理された証明が必要なところもあります。
それを確認した牧師は、証書にサインを行い、公に夫婦という宣言に入ります。それから教会にも登録をされ、記録されます。

 反対に、海外の地域にもよるのですが、教会の牧師がサインをした証書を提示して、婚姻届が受理される所もあると伺いました。

 そうすることによって、如何なる裁判になりましても、夫婦としての証明が必要なときは、この結婚証書に、牧師のサインが施された事が有効となります。

 キリスト教会としては、受理した夫婦は教会名簿にも登録され、管理されます。
ところが、日本だけなのですが、形だけのキリスト教会風の結婚式場は、法人資格もなく、正式なキリスト教会でないために、この証書の意味も軽薄な物になっているのが現状です。

 しかし、司式者としてサインした牧師が、夫婦として公的に宣言していることには変わりがありません。そのために、裁判になっても、有効になることにはまちがいはありません。

 これも、日本だけなのですが、牧師の資格もなく、バイトで結婚式を行っている外国人がいます。その人がサインを行うことは、法律的に詐欺行為となりますので、騙されて結婚式を行った事になるので、気をつける必要があります。(今、はやりの偽称問題です)
 幾ら牧師不足、(特に外国人牧師が不足)と言っても、顔さえ良ければ、誰でも良いわけではありません。そんな人を利用している式場を避けた方が賢明です。

偽者か偽称しているかの見分け方は、

 資格書もインターネットを利用し、海外から簡単に資格書をコピープリントして、牧師ですと偽っている外国人が多くいます。笑顔に惑わされてはいけません。(ほとんど演技でやっています)
 英語文の証明書は気をつけましょう

 牧師は必ずキリスト教会に所属しています。洗礼も受けています。洗礼を授けた教会が明確になっています。その教会をインターネットなどで調べてみれば、ハッキリと判ります。
簡単にその司式者が牧師かどうか、登録があるわけですから明確になります。

 もう一つは、司式者から名刺をもらうことです。名刺を忘れたとか、教会名をうやむやにする人は偽者だと思って良いでしょう。
最近、後で名刺を送りますと行って、送ってこない人が居ります。これもあやしい人です。
牧師は常に名刺を持っています。持っていなければ、ならないものなのです。

 日本は商売として結婚式場があります。商売は誘惑して商売します。誘惑しなければ、商売はやっていけません。しかし商売する側も、コスト高で、どうしても安く仕上げようと、肉や野菜のように、一流の老舗でありながら使い回しや、産地偽装や似たものを利用して、偽った行為を取ってしまう誘惑に負けている所もあります。

ですから、結婚証書にサインをされている人を、ハッキリと確認を取って居ることが大切です。
ただ、外国人が書いたサインは全く読めないものがありますが、名前を聞いて、その証書にフリガナを書いて居ればいいでしょう。
 本当の牧師ならば、そのサインは祝福となり、牧師もあなたのことを祈っていることにつながります。

 そう言う意味で、結婚証書は大切に保管をし、時には開いて二人が夫婦である確認をし合うことは、真に幸いなことです。




ウエディングキス キリスト教結婚式 その24
ウエディングキス 

キリスト教結婚式 その24


ウエディングキスは、本当の教会では省略します。
色々ごじつけた理由を言われますが、まあ、お二人の愛情表現であって、理由など無くても構いません。やりたければやれば良いだけで、やらなくても言い訳です。ここで、キスがあるとか、ないとかで、これからの結婚生活が変わるわけではありませんからね。

 しかい、結婚式場では、一般の人が一番和む時であります。これがないと、キリスト教の結婚式が型苦しいだけの感じになります。
 私は司式をしていて、正直に言って、このところが一番好きです。と言いますのも、お二人の仲良しの度合いと言いましょうか、心の状態が一瞬ですけれど、見えてくる感じです。新郎から口づけを行おうとするときに、新婦の態度、新郎の態度で、どちらが相手を愛しておられるかが、一寸見えるのです。
 時々、新郎は口を新婦に持って行きますと、新婦が避けている場合があります。え〜っと、思うことがありますが、反対に義務のように新郎が口を持って行かれている場合もあります。実に面白いのです。でもその時のいろいろと事情があってそうなる場合もあり、一概に決めつけているわけではありません。

 まあ、ここだけはイベントです。拍手も大いに結構だし、笑っても構いません。お二人の皆様に対する愛情表現を見せてあげればいいのです。
 楽しい結婚式が良いのです。
意見があれば言って下さい。


 
指輪交換 キリスト教結婚式 その23
指輪交換 キリスト教結婚式 その23

 「あなたは今、この女子と結婚しようとしています。
あなたは神の教えに従って、夫としての務めを果たし、
常に妻を愛し、敬い慰め、助けて変わることなく、
その健やかなときも、病の時も、豊かなときも、乏しきときも、
いのちの日のかぎり、あなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束し(誓い)ますか。


新郎は「ハイ。(誓います)約束します。」と答えます。
その答えを牧師が確認を取れば、指輪の交換になります。


指輪交換とは

  「指輪に継ぎ目がないのは、永遠の愛のしるしです。」とか、「薬指にはめるのは、心臓に流れる血管が一番近いからです。」とか、言われているのを聞きますが、これは嘘です。意味も分からず、勝手にコジツケて話しているだけで、何の根拠もありません。多くの人が間違ったことを、そのまま受け取っているようです。

 本当の指輪交換とは、上記の誓約に、明確に「ハイ!誓います」と誓ったことを実行するための、目に見えた契約のしるしが指輪なのです。
 指輪はエジプト時代前から存在し、家長がはめている指輪は、その家の財産、立場、地位、名誉、社会での存在全てが、指輪に象徴的に込められていました。

 家督の権利を渡すことは、この指輪を渡すことであり、契約におきましても、印鑑の役目があり、さまざまな契約も、その印が無ければ無効になったのです。

 結婚式の指輪交換も、同じ意味が含んでいるのです。夫の全存在と財産を指輪に託して明け渡し、妻に対して、誓約を実行することを見ていて下さい。と言う契約の印鑑を押すことと同じになるのです。
 妻として受けた場合、そのしるしは、責任も管理も含め、夫を守り、支え、助けていく事の誓いであります。
 
 同じく、夫は妻が差し出した誓約の指輪を受けたならば、妻を守り、支え、助けて、いのちの日の限り、(生きている限り)妻を愛していく責任を受けることなのです。

 指にはめていることで、毎日それを認識し、誓約の言葉を思い出しては、誘惑に対しても、妻(夫)に対しての愛情表現も、実行しているか否かの確認とするためであります。

 ハッキリ言って、非常に重たい意味があるのです。単なるデザインの善し悪しで、良い悪いではありません。本当の意味からすれば、印鑑と同じですから、他の人と同じデザインではいけないと思います。
 でも、今の時代はメーカーが造ったデザインに左右され、高価が良いとされるようになっています。
ブリキではいけませんが、命のある限り、継続できるものであれば、宝石が無くても、真鍮でも充分です。
 
 私の結婚指輪は当初デザインも良く、妻と同じであったのですが、年数が経ち、40年になりますとデザインはすり減り、模様など判りません。ノッペラボーです。味も素っ気もない状態です。何か今の私たち夫婦の関係を示すような状況を物語る感じです。(本当は違いますよ。とても私は家内を愛していますし、家内も私をとても愛していると、思っています???)
 
 結婚指輪は、常に指に、はめていなければなりません。幾ら都合が悪くなったとしても、指輪をはずして、何処かに行くことは、絶対にしてはなりません。誓約を破棄することとなるからです。
 契約違反をしたときは、それなりの代償を償うことになることは、ご存じの通りです。

 結婚された方は、今もキチンと指に入っていますか?
 スリ減っていても構いません。形が崩れていても構いません。
 それがあなたの幸せになると共に、親になり責任者となり、家族の長であるしるしとなるからです。