高原幸男のブログ
日常の出来事から、思いのまま書きました。
金魚がいなくなった
金魚がいなくなった   2009/07/02 

しばらく、ブログを書く余裕がなかった。新しいネットブックを買って、インストールやソフトの導入を70歳を前にして、セッティングをすることは苦労が多い。何とか無線LANやブログにアクセスすることもできたので、初めて小さい軽いパソコンで入力をしている。

ただ、軽量で持ち運びが楽になったが、文字が小さく目を細めてみたり、眼鏡を上下にさせながら見ることで疲れてしまう。 そうそう、もう愚痴はやめといて。

 さて、前回多くの金魚が生まれ、金魚鉢いっぱいに百数十匹を超える1mm〜2mmの命を見てもらった。しかし、4日前の朝、そのすべてといってもいい、いなくなってしまっている。そして、一匹が巨大化していた。そしてその内逃げ惑う一匹を無残にも食べてしまった。
 餌は不十分であったのかもしれない。そう思って、6年過ごしてきた大きい金魚の餌を加えてみると、驚いたことにそれに食らいついたではないか。体長がまだ2cm程になっているかいないかの小さい存在ではないか。まだまだ子供ではないか。

そう人間が判断してしまって、処理を間違ったために、百数十匹の生まれてきた命を食べてしまったのだ。残念でならない。と同時にその大きくなった金魚が憎らしく思えてきた。
とは言え、その金魚を殺すことは容易である。人間側の一方的な判断で、自然の営みを変えてはならないし、思いを変えて可愛がろうと考えを移すことには少し時間がかかった。

写真を入れたいのだが、この新しいパソコンにソフトを入れていない。後で記載することとして、今、何とか食べられずに逃げたであろう小さいものが2匹、中くらいが2匹、そして大きいのが1匹の合計5匹になってしまっている。

貴重な5匹となった。このわずかなものに、水槽を洗ったり、人工であれ、水草を入れたり、今普段やらないことをしている。どういう心境の変化だろうか。
 多くの命を奪ったものに、保護を加えている。

時々事件が起きる。隣近所、両親を殺し、幼い命を奪ったものが、刑務所であれ、少しの時間であっても国民の税金を使い、保護される。戦争で多くの命が奪われる。奪ったものに賞賛が与えられ、保護が与えられる。本人はもとより、遺族年金、家族年金として今も支払われ、戦友会などが開催され、酒を飲みあっている。その人たちに国は65年も保護し続けている。

何故か、私の金魚に対しての保護と同じではないかと、ふと考えてしまった。


そして、
金魚が再び孵化した。
金魚が再び孵化した 2009年6月9日

金魚大先月5月10日の日に、夜店の金魚すくいで、貰って帰った金魚が卵を産んだ話を、ブログに書いた。しかしその卵のほとんど全部が食べられてしまった話しもした。

 ところが、5日前に再び卵が水槽の底一面に産み出されていた。家内が今度はすぐに拾い集め、別の水槽に入れ直した。まさか孵化するとは思わなかったのに、昨晩の夜に体長が1ミリほどの何か動くものを発見した。それが金魚の赤ちゃんである。

 今朝起きてみると、なんと!なんと!百匹を超える金魚の赤ちゃんだらけ。
金魚子2
家内と一緒にどうする?こんなに生まれてどうなるのであろうか。少子化対策を考える日本と偉い違いだわ。餌をどうする。教育はどうする。勝手にほっておいて育つものだろうか?もう判らない。

 あまりの多さに驚きである。まだ卵が残っている。更に増える可能性がある。
しかし、一匹一匹の動きが違うし、それぞれの生き方も違う。しばらく見ていたら、寝ているような金魚をつついて、起こし回っている一匹がいた。迷惑なのだが、逆らうこともなく、行きすぎると素知らぬカッコで自分のエリヤにとどまっている。透明で小さくて、生まれ立てであるにもかかわらず、ひたすら水槽の中を動き回っているものもいる。底にへばりついているもの、水面にあがっては潜るものもいる。
泳ぎ方も小刻みにしっぽを振っているものがおれば、ゆったりと動かして進んでいるものもいる。

金魚卵
 命って不思議だなあ。しかも1ミリほどの中に意思もあれば、記憶力もあるような気がする。そしてみんな独立している。その一匹一匹に対応する育て方、守ることは難しすぎる。
十把一絡げ、最大公約数で処理をしなければならない。金魚の赤ちゃんの中にも、多少大小があり、ひ弱な赤ちゃん、元気な赤ちゃん。みんなが異なっている。

餌のやり方が難しい。ちょっと多い目にやると、餌が腐って、本来活かすものなのに、生命を危険に陥し入れる。食欲と供給する餌のバランスが必要だ。

日本の人口が1億三千万人と言われる。政府が国民全体に行き届いた、きめ細やかな政治は所詮無理がある。しかし生き方は一人一人独立した生き方をするのである。

金魚子1
 今の麻生総理は、やたらと骨太の政治、骨太の政策を訴えている。しかし実際は骨粗鬆症の状態にある日本国民に、アニメの殿堂で楽しんでください。と、甘い言葉の糖分を過大に食べさせて、更にひどい骨粗鬆症に追い込んでいる。
 無理な行動は骨折につながる。国民の大半は骨折り損のくたびれ儲けで得たお金まで、税金で摂取されている。ますます生きるための、独立のための骨は弱くならされ、骨の中身はスカスカになっている。どうしてくれる?

 無数にいる弱い、か細い金魚の赤ちゃんには、どんな餌で、どのように与えたらよいのか。教えて欲しい。良い指導者が欲しい。

 まもなく行われる選挙で選ぶ時、腕白でも良い。元気なしっかりした骨と筋が通った指導者を選びたい。家柄や学歴の世襲制度に囚われず、顔だちや人気だけで選ばないで、無数の赤ちゃんを育てた経験を持った知恵者が欲しい。
まつりに綿菓子で出店
まつりに綿菓子で出店    2009年6月8日

綿菓子
 OCCまつりが6月6日に開催。近所の方や隣の大阪女学院の生徒、また多くの教会の方々が集まってくださり、本当に賑やかなおまつりが開催できました。何人集まったかは定かではありませんが、少なくとも1000名を超える老若男女、子供たちが集まってくださった。

 私は1階入り口の近くの隅で、教会から借りてきた綿菓子を始めた。初めての経験でどうするのかも判らなかった。こんな時インターネットが便利。検索すれば、フワッとした綿菓子の上手な作り方が出ていた。幾度かリピートして見たまま、当日、如何にもプロらしく「綿菓子はいかがですか・・?」と売り込んだ。ただ、こどもがやるより、ちょっとは大きめに仕上がったと思う作品であったが、「うわーっ、すごい!」という声がかかる。なんだかこんなことでも嬉しくなるのは、大人になっても味わえる。ふしぎだなあ。
人間はほめられて成長すると言うが、大人になっても同じだと感じた。

 100円で2回、砂糖を入れて割り箸に巻き付けることが出来る価格にした。つまり1回50円で売ることにしたのである。
 すると、小さい子供らは親にねだって「綿菓子をやりたい!」とねだる子供たちが続出。朝10時から夕方5時まで、たえまなくお客が続いた。

 自分で行う楽しみがあると思って「どうぞ、自分でおこなって?」と勧めたが、みんな途中から「オッチャンやって!」と意外に難しい綿菓子制作に、結局は私が手を加えることになって、朝から立ちづくめ、とことん疲れた。お昼の食事も十分に出来ないままである。

 帰宅して、綿菓子の機械にこびりついた砂糖の後片付けや、部品の調整。まだ立ったままでの作業は続いて、とうとう腰が痛くなって、床につく前に、家内の助けをもらって、腰に鎮痛剤を塗って貰う始末。(実際は家内も疲れていたと思うが・・・)やさしく手当をしてくれた。ちょっと愛を感じた時でもあった。

 立たされることには小さい頃は馴れていたが、大人になってデスクワークが多い毎日、一度に立ちづくめの経験は年齢もあって体に応えた。
 「もう2度と綿菓子はやらない。辞めるよ。」と人に言ったが、心の中は小さい子供を相手に、たくさん会話が出来た事が嬉しくて、今度もしようかなあ??、とよぎる思いが生じていた。

 疲れる仕事でありながら、あんまり安く設定した価格のため、利益はない。しかし、何故か喜びが残って、楽しい疲れがあることは、ストレス解消になった。

 楽して儲かる仕事は、ストレスがたまる。結局後で病気になって儲けた分を浪費してしまう結果になっている。そうであるならば、ボランティアのように、労力と浪費が伴っても、与える喜びがあることは、その人を生かし、潤いある人生と多くの交流が伴って、その人はやがては助けられるものとなる。

 聖書の言葉に、「受けるより、与える方が幸いである」と言う言葉は真実だ。
与えるものがあることは、その人は豊かさを持っている。それが知識であれ、能力であれ、技術であれ、力であっても、人に与えるものがあることは幸いだ。
 何でも人から奪い取ろうとする貰い根性、乞食の貧しい心の持ち主だ。今の政治家や天下り役人の、人の税金を無駄に使い込んで、私服を増やす。もっとも愚かな貧しい人だと言える。

 マザー・テレサが日本に来たとき、多くの政治家、企業の社長たちと交わりの中で、予定滞在期間より、早くそそくさと帰国したのは、日本の経済は豊かだと言っても、非常に心の貧しい国民だ。と一言残して、失望して帰って行ったという話しを聞いた。

 貰おうと言う心を捨て、与えてあげようという、心の国民になって欲しい。そう言う政治家が生まれて欲しい。
ちょっとした綿菓子の奉仕から、感じた感想である。
OCCまつりに参加下さい
OCCまつりに参加下さい

6月6日 10時から夕方5時まで

キリスト教界では珍しいお祭り。

ききょうさん
 300人のホールでは、朝から一日中、国立劇場の人形浄瑠璃の義太夫もあり。露の五郎師匠の娘、女優であり落語家の「ききょうさん」も出演。ゴスペルあり、クラシックあり、腹話術にハンドベル。ホップスから、あらゆるジャンルで一杯に、ひっきりなしに演目が行われます。
 これを見るだけでも価値があります。入場は1回入れば500円。それに、各階でたこ焼き、おでん、綿菓子からフルーツポンチ、手作りクッキーまで。食べ物だけでなく無農薬野菜も、新品の婦人服まで、ありとあらゆるものの店が出ます。どうぞ楽しみに来てください。

 わたしは、綿菓子屋をやります。また、ケーキや食べ物の消しゴムや「当てもん屋」もやっていきます。
一等はとびきりお得です。

OCC.jpg

場所はJR玉造駅から西へ10分
大阪女学院の隣です。
駐車場は当日使えませんので、公共のバス、電車をご利用下さい。

500円の買い物チケット付きで、1000円
金を貸して欲しい
金を貸して欲しい

 日曜日の朝、牧師として忙しいときに相談したいとやっいきた男。どうしても対応できないから時間を変えてきて欲しいと頼んだ。
 すると、午後2時にやってきて、「仕事がない。おとといから路上で寝ている。奈良に仕事があるようなので、そこへ行く交通費がない。金を貸して欲しい」と言う話である。当然借りて返すつもりはない。

 過去、何十件もこんな話を持ってきて、寸借をする浮浪者が多い。みんな行き先が2000円程度の金額ですむような場所を設定してやってくる。しかも、近所の教会に必ずと言っても良い。立ち寄って同じ言いぐさで、教会を巡って寸借をしているのである。

 気の良い牧師はほとんどだまされ、高額でもなく、歩いていける場所でもないので、同情して貸してしまうのである。

 貰った当人は目的としていた場所に決していかない。お金を貰えば、必ずたばこか、酒にお金を使う。もう一つは、この手口は働かずして儲かる話である。一つの教会で2000円貰えば、一日5カ所回れば、1万円の収入である。少々歩くことに疲れても結構良い商売になる。

 話の切り出し方は不思議なことに、誰が来てもほとんど同じパターンである。しかも、お金をくれないと判ると、脅しを含め、大声で怒鳴り散らして近所にこれ見よがしに去っていく。こんな寸借詐欺師が横行している。
 服装は本当にみすぼらしくしている。そしてほとんどボストンバックに生活用品らしき物を入れて、放浪して困っているカッコをする。それでいて結構十分食べているのか、腹が出た肉付きのいい男がやってくる。しかも、ほとんど酒臭く、たばこ臭い。

 この行為は犯罪である。詐欺である。ひつこく迫るようならば、警察に連絡をするのが良い。
 ただ、私たち牧師は、レ・ミゼラブルという小説のように、本当に困っている人もいると思うことがある。そのためにお金は出さず、食事を与え話は聞いてあげることを、互いに協定している。
 救世軍の西成の教会では、どんな人でもパンとお茶、そして300円以内の金銭以外は出さない規約を作っている。

 ある牧師に聞いた話で、「仕事が無く、ここ3日間も何も食べていない。実家に帰りたいがお金がないので貸して欲しい。実家に帰り落ち着いたらお金は返しに来ます。」と言うのを聞いて同情し、食事を備え食べさせた。ただお金をあげるわけにはいかないことを知っていたので、新大阪駅まで、自動車で送り、東京までの新幹線の切符とお昼に弁当を食べなさいと1000円を渡して上げた。そして改札口に入ることを確認して牧師は帰った。
 ところがである。当人は牧師が帰るのを確認すると、その切符の払い戻しをして、現金化して酒を飲む代金に変えていることが判った。

 私たち牧師は貧しい。しかし教会のお金を出すわけにはいかないので、自分のポケットマネーを乏しい中から出すのである。ただ優しいものだから、演技がうまいとだまされてお金を出してしまう。
そんな人が都会に多く来ている。それも小さい教会をあえて選んで来るのである。私の所へ平均毎月一人ほどになるかも知れない。

 騙されても彼らの要求を聞いた上げるべきなのか。それとも頑として拒否して、本人の改心を願うのがいいのか。牧師は悩んでいる。

 やがて来る、神の裁きの日に、当人たちは天国に行けるのだろうか?
あなたならどうして上げますか?
百合が咲いた。
百合が咲いた

ゆり花  私の家の斜め向かいのマンションに、管理をされているご主人が鉢植えが大好きである。手入れを良くされていて、今年も美しい百合の花がいっぱいに咲いた。
何とも言えぬ清楚な感じ。近くを通ると百合の香りがいっぱいに広がっている。イヤな思いも吹き飛ぶ感じである。
 花は幾ら見ても、どんな種類を見ても美しいとしか言いようがない。神の作品である。
お向かいの家もご近所の方々みんなが、小さな鉢植えをして花を咲かせておられる。見るのが好きで、熱心に見ているものだから、つい下さるようである。欲しそうに見ていると思われてのこ
不明の花とかもしれないが、そうではない。実は熱心に花を見る私は、中学校の時、生物部のクラブに所属していた。俗に昆虫採集や植物採集をして、標本作りをしていた。そのために花びらや雄しべ雌しべ、授粉の過程などをつい考えてしまう癖がある。
 それと共に、私が興味を引いているのは、花びらや葉っぱの繊維、人間で言えば血管の列びや気泡の構造などの巧妙さにもいつも感心をして見てしまうのである。葉っぱ一枚一枚みんな個性があるのである。こんな目で熱心に見ている姿に、ご近所の方は、私が花をよっぽど好きなのだなあと思い違いをして、鉢植えを下さるのである。
赤花 
 とても嬉しいことなのだが、育てることと、分析することとは違う。育てることは誠に下手であるし、花の性質についての知識は持っていない。

 子育てについても、知識は持っていても上手に育てることが出来ない親がいる。理屈は判っていても千差万別、みんな個性がある。一辺倒のやり方が最善ではない。ノウハウが違う。他人がああだから自分もそうしようと言うことでもない。みんな個性がある。違うのである。
 先日も蟻の大群を見ていた。形はどれを見ても同じように見える。しかし一匹一匹にその動きに個性があるのを発見したことがある。餌を運ぶのにみんなやり方が違う。不思議だなあと見ていた。
小花 最近の世の中に個性を見ることが少ないのと、その人の個性を尊重する風潮が見受けられない。先日、学校で数学の成績が悪い子がいた。まあ全般的に成績が良くない。しかし、その子は非常に優しく、人を気遣って、良く面倒を見る。年寄りを見たら席を譲ってあげるし、ゴミ箱の周囲に散らばっているゴミを拾い、箱に入れていた。自分の持ち物でも困っていると貸し与えて、助けてあげる。クラスで病気の子が出たら見舞いに小遣いで花を買って行く。

 この子の個性はすばらしいのではないか?学問の成績は良くても、人のものは盗む。道に食べかすは捨てる。ブランド品を身につけておりながら、心は非常に貧しい。TVの報道や映画の宣伝にあおられて、キャーキャー言っている人。中年のおばさんがご主人をほっておいて、韓流スターの追っかけをして、家庭経済を浪費している。ちょっと狂っている。

雑草の中にも小さな花をつけているもおがある。発見してあげることと、かわいいと思う心が欲しい。
みんなが違った花の色をし、葉っぱも違え、大きさも異なり、咲かす形も違う。
この不規則な統一性のない違いが美しさを表している。

その総合的な違いで、花は調和をし、か細い小さい目立たないものが土台を支えている。
そう思いませんか?
宣教150周年、フランクリン・グラハム 
日本プロテスタント宣教

150周年記念大会


150周年

http://www.protestant150.org/

 日本のキリスト教歴史は、フランシスコ・ザビエルからだと言われている。しかし、沖縄の石垣島に行った折、それより37年前に、キリスト教が伝わっていた話を聞いた。それは唐船が難破し、漂流した人の中に宣教師が居たという。救出され、村人たちとの生活が始まり、そこから村民がクリスチャンになって、キリスト教の村ができた。との話である。今も、その墓がちゃんと存在する。案内してくれることになっていたのに、時間がなく見に行くことはできなかったが、今を思えば、写真にとってブログに載せられるのに残念だ。日本のキリスト教歴史が塗り替えられる大問題ともいえる。

 今年はプロテスタントの宣教が始まって150年目に当たる。これは正しい。
ペリー艦隊が1853年、横浜にやってきて、開港となり、鎖国が解かれた。海外貿易が始まるとともに、多くの外国人とともに宣教師もやってきて、布教が始まり、多くの信者が生まれた。1859年にプロテスタントの宣教師が初めて来日。その直後、ローマ字を考案したヘボン宣教師も来て、ヘボン塾を開いたりして、信仰する人が増えた。キリスト教の教えである、人間平等の思想も広がり、士農工商、男女の差別で成り立っていた政治が、危ぶまれる事態を恐れた政府は、1868年キリシタン禁制の高札を発行。教会が弾圧を受けた。その後、プロテスタントの宣教師、フルベッキが、岩倉使節団や大隈重信に信仰の自由を説明、男女の差別や貧富の差もなく、人間平等を唱え、すべての人が教育を受けられる事を聖書から説いた。72年に第1回の在日プロテスタントの宣教師会議がもたれ、翌年に禁令の高札が撤去されることとなり、信仰の自由、つまり人権の自由が獲得できたのである。
 日本はここから近代化に進み、自由な国となっていった。
つまり、キリスト教から文明開化、人間尊重、男女同権、信仰の自由が得られたといえる。
 今年はその先達の当初の苦労を覚え、信仰の尊さを学ぶべき年であると思う。


フランクリン・グラハム

 フェスティバル
2009/5/22

FG.jpg
http://fgraham-kansai.jp/

天使と悪魔の映画を見て
天使と悪魔の映画を見て 2009/5/21

天使と悪魔
「天使と悪魔」のパンフレットより転載

 新型インフルエンザが流行している最中、家内と一緒にマスクをして、大阪梅田の映画館に出かけていった。上映間近であったが予約せず入場できた。入ってみると館内前半分は誰一人の入場なし。テレビや新聞であれほど宣伝され、期待を持たせている映画にしては、入場者が少なかった。インフルエンザの影響か?

 今回のインフルエンザは、始め、「豚インフルエンザ」と言っていた。すると豚肉が売れなくなった。また、太っていて「ブタ」と言われている人がかかる病気でもない。過去になかった新種の菌のため、新型と言い直された。

 とにかく感染力は大きいらしい。わたしたち夫婦も、この6月にオーストラリヤの旅行を決めていた。しかし、昨日、ツアー会社からこのインフレエンザのために、キャンセルが相次ぎ、中止となったことが連絡されてきた。娘がオーストラりアのパースにいるので、会えることを楽しみにしていたのが駄目になった。

 人間の計画と神の計画とは違うことがしばしばである。人は全能ではない、ごく限られた知識での計画は万全ではない。何かの欠落がある。謙遜になって神の計画に従う方がよい。

 そういう意味で、牧師の視点から、神の計画を考えさせられた作品が、観てきた「天使と悪魔」であった。
 世界最小の国、ヴァチカン市国のトップ、教皇を決める「コンクラーベ」を題材にした作品である。家内とも語っていたことだが、イタリア、ローマ、ヴァチカンの教会のすばらしさと共に、その根底に流れる人間の欲望が見え隠れする姿を、映画とは別の角度で見せられた気がする。

 映画は前回、「最後の晩餐」の絵に女性らしき絵が描かれていることの疑問から、ダヴィンチコードとだとして題材にし、キリストが結婚していたのではないか、それをヴァチカンが隠蔽している。それを曝こうとする秘密結社の動きがあることを、フィクションで作品化したものである。

 女性らしく描かれているのは、本当は金持ちの優しい息子、テモテが描かれているもので、彼はひ弱なところがあって、パウロという使徒から、女々しいすぎてキリストの弟子として一緒に連れて行けないと、追い返した聖書の記事がある。その状況をダヴィンチは、テモテの人物像を想像して女性らしく描いたと言うのが本当である。

 今回の「天国と地獄」の作品も、「コンクラーベ」という実際にあった事に、ガリレオが唱えた地動説に、宗教裁判で異端児と決定したカソリックの欺瞞に引っかけて、フリーメイソンのような秘密結社の組織、「イルミナティ」を取り上げ、ヴェチカン破壊の計画を履行とする組織と、それをキャッチし、その遂行をとどめようとする側との知恵と計画の戦いを作品化したものであった。

 どちらが天使で、悪魔なのか、人間には両面があることを如実に示してくれるのもこの作品ではないか。天使と思われた人物が、実は結社の本山である悪魔であったことのどんでん返しの作品に、観客は最後に安堵の心を持つ。
 ベルニーニの優れたバロック彫像と建物をヒントに、展開する枢機卿殺人に、謎を解き、食い止めようとする、トム・ハンクスが演じるハーバード大学宗教象徴学教授との知恵比べに、確かに、前作より良い作品であると思った。理論は判っていても実現不可能な「反物質」CERNを取り上げていることのおもしろさは十分であった。

 ちなみに聖書は、悪魔(サタン)は神の側近の一番美しく、優れた「明けの明星」と言われるほどのすばらしい知恵と知識を有した天使であったと書いてある。丁度写真のように、半分悪魔で、半分が天使の像。これが人の姿とも言える。あなたは何パーセントの割合で天使の部分がありますか?
人前では天使として振る舞い、陰の心の内では悪魔の考え、計画が渦巻いていませんか?


本当の勇気
本当の勇気 2009/5/15


 民主党に牧師がおられる。土肥隆一牧師である。兵庫3区担当であるのだが、キリスト教の集会で時々お会いする。私も神戸生まれで、何となく懐かしく、お話をしても何か相通じるものがでる。同郷のよしみ、同感覚、同信仰からであろうか。

 今、自民党と民主党との政権争いが始まろうとしている。政治には詳しくはないが、大金を借金してまで、わずかの小遣いを国民にばらまいている、自民党に疑問があるので、ここに書いた。
 国民に配布するだけではない。ばらまくために、官庁を動かすための書類や手続きなどのために膨大なお金が注ぎ込まれた事に、一種の腹立たしさがある。

かと言ってそれなら受け取るな、と言われたら、日頃税金を取られ、保険金だと行って積み立てさせられて、摂取されているような感覚が常にあるため、その分を取り返したいと思う、貧乏根性がしっかり根付いているので、もらえるものはもらいたい。

 デパチカの試食コーナーで、買うつもりはないのに進められて食べ、さほど気に入ったわけでもないのに、多額の買い物をしてしまう。そして辞めれば良かったと後悔するようなものだ。

 この制度を見ていると、自分は借金して生活を潤し、返済を子供や孫に支払わせて行こうと言う、体質であることが見えて、気にくわない。新たな首相が出ても、またその借金に上乗せして金を作り、余分な箱物という天下りを受け入れる無駄な行政を作って行く。そして国債と名前は良いが、更にその子や孫に借金を背負わせて、自分は多額の退職金をちょうだいして雲隠れ引退。

 日本国の破滅、戦争への道筋が見え隠れする。

 それは60数年前と同じ、多額の国債が一瞬のうちに国の体制が変わった理由として、国民が持っていた国債を、一文の価値もなくす時を計算に入れているのではないだろうか。(第二次世界大戦の時、国民に多くの国債を発行、買わせておきながら、無価値にした歴史が残っている)

 昔の政治家の中には、国民に多くの感化を与えた人物がいた。今の政治家には余りそれを見いだせないばかりか、施政方針の一つも実現にならない前に辞めてしまう。
 私は実際にこんな例を知っている。
 知人のお父さんが警察官であった。永年勤め、定年が近づいた。その日の1ヶ月前に警察署長に昇進となった。そして退職。しかし、それにより退職金が膨大にアップ。1週間だけの所長の立場で、これという業績も仕事もない。いやすることが出来ない。良く報道される芸能人の1日所長というものに似ている。それはイベントであろうが、国民に判らせないで済むような、税金を上手に使い込む体質が習慣化されている。

 人間は、特にお金は少ないより多い方が良いとする、本能がある。みんなそのために働いているようなものだ。

 そんな政治家の中でも、浅沼書記長、川上丈太郎、古くは原敬、犬養毅首相などは、自己犠牲を貫いた、学ぶ価値ある人物がいる。しかしこれらの人物は、独善的な欲望の持ち主が、暴力を用いてでも、政治を変えないために暗殺をする輩がいる。今の方が多くいるだろう。だからか、恐れて政治を変えようとしない。

 政権が代わるなら、自己保存と自己優位に専念する人物党よりも、自己犠牲に徹した情の深い人物党になってほしい。実現不可でも、ささやかな私の希望である。

 スエーデン、オーストラリア、他の国の消費税は高いし、税金もある収入以上からは膨大な税金が課せられるらしい。しかし教育費も医療費も不要だし、老後の心配もない福祉関係が充実しているので、国民はすべてあまり預貯金がないのに優雅である。

自己犠牲が足りない日本の政治家たち。悪の組織に立ち向かう勇気がない。
自己保存法則の制度、自己拡張のしきたりに逆らわない温存癖があるようだ。

ガンジーやマザーテレサ、その他、見習う人物は無数におられる。学ぶ機会がないわけではない。強欲者の圧力や取り巻きに、実行する立場が取れない、勇気が足りないだけだと思う。

 どのようにすればこの世界は住みやすい場所になるのかと言う問いに、野球監督だったケーシー・ステンゲルが上げた8つの教訓を、参考に紹介する。

 1.勇気とは、単に恐れがないことではない。それは、人々に感化を与え、彼らをさらに前進させるものである。
 2.先頭に立って人々を導け。しかし、後方の状況を忘れるな。
 3.後ろから人々を導け。彼らに、自分たちが先頭にいると思わせよ。
 4,敵を知れ。特に、敵の好きなスポーツについて学べ。
 5,友人は傍らに置け、敵対する者たちは、さらに近くに置け。
 6,見かけは大事である。笑顔を忘れるな。
 7.白黒がはっきりしているものなど、最初から存在しない。
 8.やめることもまた、人々を導くことである。
金魚の卵が無くなった。
金魚の卵が無くなった。 2009/5/8

先日、金魚が卵を産んで、金魚鉢の底いっぱいになった話しをした。
ところが、今日未明には一つもない状態になっている。
食べられたのである。
わずか数個、人工の草の葉にくっついているのが見えるだけ。
みんな食べられちゃった。
保護することもなく二日間、餌は十分に与えているはずなのに、
そのままに置いていたら無くなった。

ショックであると言うより、情けない思いである。
飢餓状態であればそれも仕方ないだろうけれど、
十分に生きるだけの餌は与えられている。

しかし、貴重な命を奪うのである。
本能のままで生きる人は、自己のみの快楽快感快眠を求める。
万引きする人は、貧しいからやったのではない。とスーパーの店長は言う。
みんなお金を持っている。支払うお金は十分にあって、盗むのである。

学校の給食費を払わない親がいる。
お金がないのではなく、ただ食いを子供にさせている。
他人が支払う給食費で、食べるのだから盗み食いである。

指摘され、注意を受けると逆ギレである。
自分さえ良ければ良いというのである。

このように大きくなった金魚を、今日はにくたらしいと思った。
自制心がない。他人を思いやる愛がない。大きくなった金魚。

愛されないで育つと、社会において、邪魔で迷惑な生き方をする人間に育つ。
戦後2世代目の親は、教える基準を持たないまま育ったから、
その子供に対しても教えるすべを知らないで育ててしまう。

自分さえよいと言う自己主義な人間、思いやりがない本能のままの人になっている。
自分で産み、我が子を食べる金魚が、昨今の人間社会を物語るような
自然本能に似たような生き方をしているように見えた。